ある日、一般塾生の睦実さんからご質問を受けました。
「あやさん、『おはぎとドリアン』って絵になりますか?」
・・・中空を見つめ逡巡すること数秒。
やはり分からなかったので「…どうしてそう思ったの?」尋ねると、きちんと理由がありました。
睦実さんの大学時代の学友・インドネシア人の方に絵を描いてプレゼントしたい。
日本のことわざで“思いがけない幸運に会う”ことを『棚からぼたもち』というけれど
インドネシアにも同意のことわざがあり
そこでは『ドリアン』が『おはぎ(ぼたもち)』として表現されているのだ、と。
…以下私の想像ですが
学生の頃のふたりがそんな会話をして「へぇー!」と互いに驚いた思い出があるのでしょう。
その絵を送ることで相手の方もその出来事を思い出しフフ、と微笑むはず…。
最初は突飛に感じた画題に納得するのでした。
……しかし、それをどんな絵にして表せばいいのだろう。。
絵を描く時は、本番の紙やキャンバスにいきなり描くこともありますが、
紙やクロッキー帳にラフを描いて構図やアイデアを複数案描きだしてから絞り込んだり別案と組み合わせて折衷案にしてみたりと、検討を行います。
方向性がきまったところでイザ、実制作へ…!
この過程を疎かにしてしまうと、なりゆきまかせになってしまいます。
なりゆきまかせに描くこともそれはそれで楽しいのですが…今回の目的は『プレゼント』。
意図したことが相手に伝わらなければなりません。
『おはぎとドリアン…ううむ、どう見せるか。』
一緒に頭をひねりながらラフを描き出してみます。
▲…ひとまず並べてみる。
地面に影がつくと…おはぎはお皿に載せたくなるのが人情。
▲平面構成風…意味がわからないので没。
▲浮かせてみる。(マグリット"
ピレネーの城")
▲さらに浮かせてみる。友人と睦実さんの後頭部を入れたり…
▲マグリット風リトライ。("
これはパイプではない")
・・・棚からドリアン。
……だんだん大喜利みたいになってきてしまいました。
(そもそも『おはぎ』の通念とは粒餡か、こし餡か…?)
しばらくして
「こんなかんじ、どうです?」
声がかかり、彼女のラフを拝見。
ドリアンは何処(いずこ)…?
「これ(右)は…?」
「ドリアンの切り身です。」
・・・なぜ、切り身(スライス)…!?
「一見して『ドリアン!』って、分かりやすい方が良くないですか?」
「ウ~ン…でも、『これ』なんですよ…。」
『切り身案』で描きたい!との本人のご希望から
『Ohagi』『Durian』と文字を添えてイラスト的にしてみましょうか。ひとまず構想は着地したのでした。
(実制作はご自宅で描かれたため、絵の写真がなく…ラフですみません)
ご友人には制作意図も通じ、とても喜んでもらえたそうです。
それから数日後。
学生時代にアジア諸国を旅したという一般塾生・Epimbiさんにこのお話をしたところ『ドリアンの切り身』のくだりで「…現地の人ならそれ、分かると思いますよ。」と真面目な表情でおっしゃいました。
果物の王様と呼ばれるドリアンは生産地でも高級品。
Epiさんが旅行に行った際、買い求めやすいようカットしたドリアンが普通に売っていたそうで『学生の貧乏旅行とはいえ、一度は食べてみたい…!』と、食したそうです。
「…して、そのお味は?」
「バナナと、バニラアイスを合わせたような味でしたねぇ…」
ゴツゴツ・トゲトゲとした形状こそがドリアンのアイデンティティ、と思い込んでいた私は…正直なところ、実物を見たことも食べたこともなく。
そんな私が『客観的に伝わらないのでは?』と危惧した『ドリアンの切り身』というビジュアルは、実際に食したEpiさんや現地の友人を持つ睦実さんには「わかる」モノで。
その地の文化や場所、個々人の経験値に応じて「あたりまえ」は異なるのだなぁ…
当然といえば当然のことなのですが…
自分の狭い「あたりまえ」の尺度について考えさせられる出来事でした。
ちなみにインドネシア版の『棚からぼたもち』は
『落ちている(きた)ドリアンを手に入れる』というそうです。
mendapat durian runtuh
塾生さんとの日々の中で、お気に入りの話のひとつです。
「…というのが、『おはぎとドリアン』のお話。」
締めくくると、
ニコニコ聞いていた当時受験生のSetoちゃんが
「…なんだか落語みたいなお話ですね!」と…。
ん、落語かな…?
いやいや短慮にリアクションしてはイカン。
私は落語の知識に長じていないのだから。
でもコレ、落語的オチなのかしら…ううむ、もっと勉強せねば。それから適した返答を考えよう。
…新たな悩みが生まれたのでした。